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023 その他の遺跡

目次に戻る 歴史マップ(宍塚里山 いまむかし から引用) 般若寺一帯 古墳も中世の大寺院もあった遺跡地帯である。中世の布目瓦などが出土する。 大池 堤防のすぐ北東の台地上で弥生時代の竪穴住居址が発見されている。池の北の台地上に宍塚貝塚と呼ばれる縄文時代前期の小規模な貝塚があったが位置は不明。 宍塚の歴史と自然の会が耕作している「つるぐみ農園」のあたり 弥生―古墳時代の勢至久保遺跡。畑の脇などに土器片をみかけることがある。遺跡は里山内の台地上各所にあり、他でも道端に土器片などがみられることがある。 五斗蒔谷津南の台地縁辺部 旧石器時代から古代の遺物の出土した栗崎遺跡の北端部分。モグラの持ち上げた土などに縄文土器片などを見かけることがある。 びた石 筑波山麓産雲母片岩の板状のもの。びた石とよばれ、水路の蓋に使われている。その多くは古墳の石棺の石の転用と思われる。集落内にも、何箇所かで見られる。 般若寺付近の古墳 低地の微高地上に竜王山古墳と宍塚小学校内古墳がある。ともに墳丘は残っていないが発掘調査で周溝(竜王山古墳では底の幅六m以上、小学校内古墳は底の幅四m )と埴輪片が出土した。竜王山古墳は四世紀末、宍塚小学校内古墳は五世紀末〜六世紀初頭の築造と推定されている。 鹿島様古墳 墓地に上るとその西側に全長約四十五m の前方後円墳の高まりが見える。 吉瀬東古墳群 つくば市吉瀬の鹿島神社、社殿の東南の二つの高まり。西の墳丘の上に大日如来像がある。 目次に戻る

022 宍塚古墳群

目次に戻る  宍塚古墳群は、宍塚にある24基とつくば市吉瀬にある1基(宍塚古墳群9号墳=吉瀬東古墳群1号墳)を合わせて、25基の古墳からなっているとされています。  詳しくは、 上高津貝塚ふるさと歴史広場の 宍塚古墳群の概要 をご覧ください。 目次に戻る

03001 屋敷

目次に戻る  宍塚は、江戸時代の農村の街並みが残っていますが、さすがに茅葺の屋敷は姿を消しています。  屋根は瓦葺に変わっていますが、瓦葺にしたときに屋根下げているお宅と、茅葺のうえに、瓦葺の屋根をかぶせているお宅とあるようで、かなり、屋根の傾斜が急なお宅も見受けられます。  江戸時代には、軒高に制限があり、農家では軒高の高い家は建てられなかったそうで、軒高の高い家は明治以降に建てられたものだそうです。  土蔵も大きな梁が目立ちます。土蔵の扉はケヤキが一般的で、燃えにくいのだそうです。外見からはわかりにくいのですが、平地では見られない木蔵(板蔵)が残っているお宅もあります。  般若寺の本堂について、筑波大学の先生と拝見したところ、先生からは、書院造で、構造や欄間などからみて、寺院として建てられたものではなく、柱の太さからすると相当の豪農の建物であったと思われるとのことでした。  般若寺の本堂については、助六一揆で有名な下佐谷の庄屋の屋敷を移築したとの伝承がありますが、この話を裏付けるようです。 ※ お屋敷を拝見するときには、人がお住みの民家ですので、道を通りながら、外からそっと眺める程度にしましょう。 目次に戻る

03002 門構え

目次に戻る  宍塚の集落では、大きな門構えが見られます。  江戸時代のものを作り直している場合も、昔の面影を残しています。門構えは、長屋門、薬医門、冠木門が見られます。   長屋門 は、武家屋敷から発達したもので、江戸時代は、家格のある農家、庄屋、豪農でなければ許されなかったようです。   医薬門 も多く見られます。これは、四脚門ともいわれ、本来は、武家屋敷などで用いられたものが、扉をなくして医家で用いられたことから名付けられたそうです。代々、医者をやっていたお屋敷も医薬門のようです。  般若寺の山門などは、門柱に貫(ぬき)がある 冠木門 だそうです。  門扉、門柱はケヤキ、梁は松という場合が多いようですが、ケヤキは自分の庭で、松は宍塚の里山から切り出していたようです。  般若寺はともかく、みなお住まいになっている民家ですので、そっと眺めてみてください。 目次に戻る