03003 屋敷林など

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 屋敷林とは、屋敷の周囲に設置された林のことですが、隣地との境界を画するだけでなく、防風、防火など様々な機能を持つとされます。
 宍塚の自然と歴史の会では、これまで、宍塚の地元の方々から様々な話をお聞きし、「聞き書き 里山の暮らし」、「続聞き書き 里山の暮らし」としてまとめてきました。
 里山の暮らしの中での、屋敷林などについても、まとめてきています。(以下、続聞き書きP218以下から)
住まいの中で
1.屋敷の境 隣家・道との間には、木を植えたり、竹で作った垣や、イキグネといわれる生け垣を設けたりした。イキグネにはシラカシのほか、柘植(つげ)、柊(ひいらぎ)なども利用した。
2.竹山 家の敷地内に、真竹の林(「竹山」や「竹藪(たけやぶ)」といった)のある家が多かった。垣や、茅ぶき屋根の建築材(ながらなど)、稲かけの足に使ったりした。篭や笊も竹山の竹を利用し、篭屋がその家の竹で篭を作った。竹を買いに来る商人もいた。
 竹皮も利用され、竹皮草履を作ったり、また、竹皮を買いに商人が家々を回ることもあった。
3.屋敷の材料 檜(ひのき)・杉(すぎ)・松(まつ)などを家の材木にした。床部と土間の間にある大黒柱には欅(けやき)が使われることが多く、松は大きなものを梁に、松板は畳の下などに利用した。客間には檜が多く使われた。宍塚の山にある杉には赤と黒があり、赤は母屋の材として、黒の方は長屋の柱などに利用したという。
 木を切って持ち出して製材・製板するのに多くのお金がかかるようになって、宍塚の山の木を利用して家を建てることは減っていった。
※杉の木を伐ると、通常は赤味がかっている芯の部分が黒っぽい場合があるそうです。この黒芯の杉は、「水分の多い谷間や肥えた土地でよく見られる」という経験談も聞きますが、本当のところは良くわかっていないようです。「杉の赤芯と黒芯」)
 昔は、水分を多く含む上に、見た目が悪いことから低く評価されてきたといいます。
4.庭木・庭草 鑑賞のために植えるということは少なく、何かの役に立つものを家や庭の周囲に植えるのがほとんどだった。シュロや柊、南天や煙突のそばのモチノキなどはほとんどの家にあり、その他、実のなるもの、必要なものなどをそれぞれの家で利用していた。
①欅(けやき) 「どこの家でも欅の一、二本はあった」。家を建てるときには「かまち」等に材として利用した。売ることもあった。夏には庭の日陰として役に立った。
②モチノキ 火に強いので煙突のそばには必ず植えた。成長がよく、よく茂るので防風林にも利用した。とりもちの材料になった。「金持ち」に通じるところから大事にされた。
※防風林
 風害を防ぐために設けた林。宍塚では、敷地の一辺に、モチノキやシラカシで、背の高い壁のように密に繁った垣を設けた家もあった。
※とりもち
 小鳥や昆虫を捕らえるため竿の先などに塗って用いる粘り気の強いもの。モチノキの皮を削り取り、水につけてウスでついてつくる。
③柊(ひいらぎ) 「まよけとしてほとんどの家の庭にあるものだった」。節分に使う。
④南天(なんてん) 縁起物。講の時などに使う。赤飯にのせる。難を転ずるといって災難除け、魔除けに玄関、手洗、鬼門に当たる場所に植えるとよい言い伝えられてきた。床飾りや、お祝い事にもよく使われている。
⑤シュロ 「どの家にも五本くらいあった。ショロ縄つくりをよわり※でした。雨に濡れても腐らないためいろいろに使った。土浦からシュロ縄やシュロの皮を買い取りに来る人がいた」シュロの葉でハエたたきを作ったりもした。
※よわり(夜わり) 夜なべ仕事のこと。
⑥榎(えのき) 「榎は大きくすることだけを考えてご先祖さまがわざわざ植えたとも言う。えかい(大きい)木の一本もあれば農家の誇り。榎のかたいのは鴨居に使った」「裏に榎の大木があったが、それを切ってしまったとたん、蔵の中の温度が上がり米がまずくなった。榎の大木が日陰を作っていたからだろう」
⑦桐(きり) 材木として売ることがあった。
⑧桃 「桃の葉はあせもに良いから、葉を揉んでつけたり、なまのままお風呂に入れたりしたね」
⑨他に、柿、梅、柚子など多くの家が植えた。「夫が戦争に出征することになり、無事に帰ってくるように願をこめた胡桃(来る身)を植えた。今でもその木はある」
⑩草本のホウセンカ、ユキノシタ、ゲンノショウコ、ドクダミなどは薬草として、箒草はほうきに、ほうずきはお盆の飾り花などとして植えられていた。
5.燃料 宍塚の山で集めた薪・粗朶(そだ)や松葉などを利用。冬に一年分をあつめ、木小屋などに保管した。
 松や杉は火力が強く、特に松葉は「松葉かご一杯で風呂が二日分焚けた」というほど火力が強く、多く利用された。他に、桑の木、トウモロコシの茎葉、大豆から、綿のから、藁なども燃料として利用することもあった。
 かたずみ(クヌギの炭)は特別な時しか使わず、消壺にけしずみを保存し、利用した。冬の暖房は、いろりのない家では火鉢や、掘り炬燵だった。
 一九六〇年代にプロパンガスなど、薪炭以外の燃料が普及していき、それまでの生活と大きく変わっていった。

 聞き書きで伺った話も確認しながら、平成12年10月には、宇都宮大学名誉教授の谷本丈夫先生と一緒に、宍塚の集落を訪ねてみました。
シラカシの生垣は、宍塚では「イキグネ」と呼ばれていますが、「いぐね(家久根、居久根)」ともいわれるそうです。シラカシは、家の東南に植えるものとした古文書もあるそうですが、シラカシ、サンゴジュ、モチノキは防火のために植えられることが多いとのことでした。
 集落の中で、長屋門を見て、門柱はケヤキ、梁はマツなど具体的にわかると面白いです。
 屋敷内に大きなケヤキの木などがみられましたが、江戸時代には、勝手に太い木を切ることはできなかったそうです。チャボヒバ(地元ではロウソクヒバ)といわれる木は、一般的には特別な意味はないようですが、地元ではステータスをあらわすものであったようです。

 屋敷林は、以下のような意味合いがあるそうです。
 隣地との境界を画する
 防風、防火
 用材(ケヤキ、ヒノキ、杉、竹など)
 食用(タケノコなど)
 家の格を誇示(ケヤキなど)

 屋敷や門構えなどと竹やぶや里山のヒノキ、スギ、マツなどを合わせて見ていくと、江戸の昔が見えてくるような気がします。


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