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090 参考文献など

 目次に戻る 先史時代、原始時代 鬼怒川の流路変更 池田宏 1995 宍塚大池の谷津の成り立ちー残された古い地形ー「宍塚大池地域自然環境調査報告書」宍塚の自然と歴史の会 花粉化石 上高津貝塚ふるさと歴史の広場編 2000 上高津貝塚ふるさと歴史の広場 常設展示図録  鈴木公雄、辻本崇夫 土浦市上高津貝塚周辺の後期更新世より完新世の古植生 土浦市立博物館紀要第4号 弥生時代以前の年代 辻誠一郎 2013 縄文時代の年代と陸域の生態系史 講座日本の考古学3縄文時代上 青木書店 松島義明 2013 沿岸部の環境変化 同上 岡村道雄 2005 縄文時代概説 日本の考古学上 学生社 郷土史など (旧中家村関連) 大西賢之助「中家村郷土史」明治45年(土浦市立図書館所蔵) 小神野藤花「中家村誌」昭和9年(土浦市立図書館所蔵) 中家ものがたり 佐野春介編 1979 中家ものがたり刊行会 旧中家村史 青木光行 1986 友愛出版社 新治郡郷土史 1979 塙泉嶺 賢美閣 (土浦市関連) 土浦市史 1975 土浦市 「県方集覧」 土浦市史編集資料 第22篇 1973 土浦市史編纂委員会編  「村明細書上帳写」土浦市史編集資料第2編 1968 土浦市史編さん委員会編 「土浦の文化財関係史料集」 平成23年 雨谷昭監修 土浦市博物館土浦市史資料 土浦市備考第1巻(総論・神社仏閣編) 1989 寺島誠斎原編 土浦市史編纂員会編  土浦町内誌 1989 永山正 土浦市教育委員会 土浦の歴史 1982 永山正 東洋書院 土浦の石仏 「土浦の石仏編集委員会」1985土浦市教育委員会、土浦市文化財愛護の会 土浦市教育委員会「土浦の文化財」(昭和53年版) 中世の霞ヶ浦と律宗 土浦市立博物館第18回特別展 土浦市立博物館 「古代常陸国信太郡の郷について」久保田喜一 茨城史林第16号 (その他) 般若寺栞 「大聖寺奥本尊大日如来と三嶋惣検校安一について」大聖寺リーフレット 「新発見 三嶋惣検校安一の史料と土浦の伝説」香取俊光 医道の日本2009月10月号 ㈱医道の日本社 (宍塚の自然と歴史の会関係) 「明治初年における宍塚大池周辺の土地利用形態」1995 宍塚大池地域自然環境調査報告書 宍塚の自然と歴史の会 聞き書き 

03003 屋敷林など

目次に戻る  屋敷林とは、屋敷の周囲に設置された林のことですが、隣地との境界を画するだけでなく、防風、防火など様々な機能を持つとされます。  宍塚の自然と歴史の会では、これまで、宍塚の地元の方々から様々な話をお聞きし、「聞き書き 里山の暮らし」、「続聞き書き 里山の暮らし」としてまとめてきました。  里山の暮らしの中での、屋敷林などについても、まとめてきています。(以下、続聞き書きP218以下から) 住まいの中で 1.屋敷の境 隣家・道との間には、木を植えたり、竹で作った垣や、イキグネといわれる生け垣を設けたりした。イキグネにはシラカシのほか、柘植(つげ)、柊(ひいらぎ)なども利用した。 2.竹山 家の敷地内に、真竹の林(「竹山」や「竹藪(たけやぶ)」といった)のある家が多かった。垣や、茅ぶき屋根の建築材(ながらなど)、稲かけの足に使ったりした。篭や笊も竹山の竹を利用し、篭屋がその家の竹で篭を作った。竹を買いに来る商人もいた。  竹皮も利用され、竹皮草履を作ったり、また、竹皮を買いに商人が家々を回ることもあった。 3.屋敷の材料 檜(ひのき)・杉(すぎ)・松(まつ)などを家の材木にした。床部と土間の間にある大黒柱には欅(けやき)が使われることが多く、松は大きなものを梁に、松板は畳の下などに利用した。客間には檜が多く使われた。宍塚の山にある杉には赤と黒があり、赤は母屋の材として、黒の方は長屋の柱などに利用したという。  木を切って持ち出して製材・製板するのに多くのお金がかかるようになって、宍塚の山の木を利用して家を建てることは減っていった。 ※杉の木を伐ると、通常は赤味がかっている芯の部分が黒っぽい場合があるそうです。この黒芯の杉は、「水分の多い谷間や肥えた土地でよく見られる」という経験談も聞きますが、本当のところは良くわかっていないようです。「杉の赤芯と黒芯」)  昔は、水分を多く含む上に、見た目が悪いことから低く評価されてきたといいます。 4.庭木・庭草 鑑賞のために植えるということは少なく、何かの役に立つものを家や庭の周囲に植えるのがほとんどだった。シュロや柊、南天や煙突のそばのモチノキなどはほとんどの家にあり、その他、実のなるもの、必要なものなどをそれぞれの家で利用していた。 ①欅(けやき) 「どこの家でも欅の一、二本はあった」。家

023 その他の遺跡

目次に戻る 歴史マップ(宍塚里山 いまむかし から引用) 般若寺一帯 古墳も中世の大寺院もあった遺跡地帯である。中世の布目瓦などが出土する。 大池 堤防のすぐ北東の台地上で弥生時代の竪穴住居址が発見されている。池の北の台地上に宍塚貝塚と呼ばれる縄文時代前期の小規模な貝塚があったが位置は不明。 宍塚の歴史と自然の会が耕作している「つるぐみ農園」のあたり 弥生―古墳時代の勢至久保遺跡。畑の脇などに土器片をみかけることがある。遺跡は里山内の台地上各所にあり、他でも道端に土器片などがみられることがある。 五斗蒔谷津南の台地縁辺部 旧石器時代から古代の遺物の出土した栗崎遺跡の北端部分。モグラの持ち上げた土などに縄文土器片などを見かけることがある。 びた石 筑波山麓産雲母片岩の板状のもの。びた石とよばれ、水路の蓋に使われている。その多くは古墳の石棺の石の転用と思われる。集落内にも、何箇所かで見られる。 般若寺付近の古墳 低地の微高地上に竜王山古墳と宍塚小学校内古墳がある。ともに墳丘は残っていないが発掘調査で周溝(竜王山古墳では底の幅六m以上、小学校内古墳は底の幅四m )と埴輪片が出土した。竜王山古墳は四世紀末、宍塚小学校内古墳は五世紀末〜六世紀初頭の築造と推定されている。 鹿島様古墳 墓地に上るとその西側に全長約四十五m の前方後円墳の高まりが見える。 吉瀬東古墳群 つくば市吉瀬の鹿島神社、社殿の東南の二つの高まり。西の墳丘の上に大日如来像がある。 目次に戻る

022 宍塚古墳群

目次に戻る  宍塚古墳群は、宍塚にある24基とつくば市吉瀬にある1基(宍塚古墳群9号墳=吉瀬東古墳群1号墳)を合わせて、25基の古墳からなっているとされています。  詳しくは、 上高津貝塚ふるさと歴史広場の 宍塚古墳群の概要 をご覧ください。 目次に戻る

03001 屋敷

目次に戻る  宍塚は、江戸時代の農村の街並みが残っていますが、さすがに茅葺の屋敷は姿を消しています。  屋根は瓦葺に変わっていますが、瓦葺にしたときに屋根下げているお宅と、茅葺のうえに、瓦葺の屋根をかぶせているお宅とあるようで、かなり、屋根の傾斜が急なお宅も見受けられます。  江戸時代には、軒高に制限があり、農家では軒高の高い家は建てられなかったそうで、軒高の高い家は明治以降に建てられたものだそうです。  土蔵も大きな梁が目立ちます。土蔵の扉はケヤキが一般的で、燃えにくいのだそうです。外見からはわかりにくいのですが、平地では見られない木蔵(板蔵)が残っているお宅もあります。  般若寺の本堂について、筑波大学の先生と拝見したところ、先生からは、書院造で、構造や欄間などからみて、寺院として建てられたものではなく、柱の太さからすると相当の豪農の建物であったと思われるとのことでした。  般若寺の本堂については、助六一揆で有名な下佐谷の庄屋の屋敷を移築したとの伝承がありますが、この話を裏付けるようです。 ※ お屋敷を拝見するときには、人がお住みの民家ですので、道を通りながら、外からそっと眺める程度にしましょう。 目次に戻る

03002 門構え

目次に戻る  宍塚の集落では、大きな門構えが見られます。  江戸時代のものを作り直している場合も、昔の面影を残しています。門構えは、長屋門、薬医門、冠木門が見られます。   長屋門 は、武家屋敷から発達したもので、江戸時代は、家格のある農家、庄屋、豪農でなければ許されなかったようです。   医薬門 も多く見られます。これは、四脚門ともいわれ、本来は、武家屋敷などで用いられたものが、扉をなくして医家で用いられたことから名付けられたそうです。代々、医者をやっていたお屋敷も医薬門のようです。  般若寺の山門などは、門柱に貫(ぬき)がある 冠木門 だそうです。  門扉、門柱はケヤキ、梁は松という場合が多いようですが、ケヤキは自分の庭で、松は宍塚の里山から切り出していたようです。  般若寺はともかく、みなお住まいになっている民家ですので、そっと眺めてみてください。 目次に戻る